生きよ、そして、歌え ERIKO Vol.1


当サロンに通院する歌手ERIKOさん。
彼女の壮絶な生き様と歌手魂を、一人でも多くの皆さんに知っていただくために、この先、複数回の特集を組んでお伝えします。
私が初めてERIKOさんの喉を診たとき、絶句して言葉が出てきませんでした。
甲状腺手術して間もない、痛々しい傷跡。
「こんなに大きく切開したなんて・・・」
胸が詰まりました。
そう、韓国人テノール歌手ベー・チェチョルさんよりひどい状況だったのです。
「これでは、まともな歌声なんて出ない・・・」と心でつぶやきました。
この先、手術創が治ってくるにしたがって、広範囲に瘢痕・癒着が形成され、発声に関係する筋肉の動きのバランスが崩れるため、通常会話はできても、繊細な歌唱のコントロールは、本気で無理だと思いました。
悲しくなりました。
けれども、歌手のERIKOさんに残酷な真実を伝えることはできず、「元の声に戻る可能性はありますよ」と弱気な小声で話したのを鮮明に記憶しています。
しかし、彼女は意に介さず、「な・お・る!」と信じ切っていました。
その思いの強さは、平凡に生きる一般人の境地をはるかに越え、今にも神の領域に届くような気がしました。
弱輩な私は、怖々(こわごわ)アプローチを開始したのでした。
皆さんに全容を知っていただくために、彼女の手術痕と、その喉頭周辺筋予想図(外皮より)を掲示します。
目をそむけず見てください。
ザックリと大きな手術創・・・
発声に関与する筋肉の数々は廓清され(取り除かれ)、発声が困難に・・・
広範囲にわたる組織の瘢痕と癒着で、声に重要な外喉頭筋が動かない・・・



生きよ、そして、歌え ERIKO Vol.1_e0146240_22145923.jpg

生きよ、そして、歌え ERIKO Vol.1_e0146240_22151293.jpg
※上画は触知検査とビデオ検査による予想図です。わかりやすくするために若干拡大して描きました。そのため完全に一致するものではない旨を記します。また、右胸鎖乳突筋のHigh Tension、および、その圧による肩甲舌骨筋の可動不全も存在していますが、ここには描いてありません。





以下は、彼女の手記です。
今回は、序章・・・






甲状腺乳頭癌の手術を経て、歌手活動復帰に至るまでの経緯。

2007年6月初旬、顎の下がぷっくりと腫れて微熱があったため、近所にあるクリニックに行った。が、先方の都合で休診日。ふと隣を見たら「甲状腺クリニック」が新しく開設されていた。ここでも風邪薬なら処方してもらえるかな、と思い診察を受けることに。
初診時の見解は「おそらく炎症でしょう。抗生物質を3日分処方しておきます。それでも治らないようでしたらまたいらして下さい。」と先生から言われた。
3日後、熱はおさまったものの顎の下の腫れはあまり変わらない状態だったので再び診察に行き、エコー検査をすることに。
「リンパ節がここにあります、血流が確認できるので悪いモノではないです。炎症ですね。
あ、ついでに私の専門の甲状腺もこの機会に見てみましょうか?」と。
「甲状腺ってどこにあるんですか?」と私が聞くと「喉仏の上に蝶ネクタイみたいに乗っかっているモノですよ。これです。」と先生はしばらく私の喉と首周辺をエコーにかけた。
しばらく先生は黙々とエコーとにらめっこをしていた。「うーーん。」と言いながら。
そして「林さん、・・・驚かないでくださいね、というか私自身が一番驚いているのですが、いきなりと思われるでしょうが、林さんの甲状腺の中にあるこの部分、これ、甲状腺乳頭癌という種類の癌なんです。」
私は「え?何ですか?癌??甲状腺??私が??」と思わず笑ってしまった。
全く実感がないというか、訳が分からないというか。甲状腺がどこにあるのかも分かっていなかった私が甲状腺の癌だなんて、到底信じられなかった。
「とりあえず命に別状のある癌ではないので心配は要りません。甲状腺の場合エコー検査が一番信頼度が高いので、ほぼ間違いなく乳頭癌であると言い切ってよいでしょう。年齢が若いため早期に摘出手術を行うことを勧めますが、焦ることもありませんよ。」と、先生は千葉大学医学部付属病院への紹介状を渡してくれた。
私がまっさきに懸念したのは命ではなく「声」だった。
「先生、私は歌を歌っているのですが、術後すぐに声は出せるようになるんですか?」
「ええ、大丈夫です。声も出ますし、その他の生活制限も一切ありません。ある意味、現時点で発見出来てラッキーですよ。」と先生は笑顔だった。少し安堵感を覚えた瞬間だった。

そして翌7月上旬に千葉大学医学部付属病院甲状腺科へ入院。まだ夢見心地(悪夢)のまま、めまぐるしく時間だけが過ぎていた。手術予定日1週間前にライブが入っていた。
担当医の先生にお願いして外出許可をもらいライブへ出向いた。
「これが最後になるかもしれない」そんな思いを抱きつつ、歌いながら涙がこぼれた。

無事に歌いきった。バンドメンバーや友人たちに励まされ見守られながら、私は病院へと戻った。周りの人々への感謝をあんなに強く感じた時はなかった。
その感謝を勇気にして、私は手術に臨んだ。
手術前夜、担当医から私本人と家族に病状の詳細・手術方法と後遺症の説明が行われた。
その内容は想像をはるかに超える厳しいものだった。
まず甲状腺右葉にある癌は2cm弱、気管にまで達している可能性が非常に高い。
その場合、気管切開となり、しばらくは喉に穴が開いた状態での生活を強いられる。
しばらく経過を見て、肩の肉などを移植して喉の穴をふさぐ手術をすることになるでしょう、と。そうなると歌は勿論、通常の会話の声さえも困難になるため、歌手活動は諦めてください、とハッキリと言われた。「命と声、どちらを選びますか?」という先生からの質問に、家族は「もちろん命です!」と即答していたが、私は「声のない人生なら命さえ要らない」と心の中で思っていた。
そして、右頸動脈の上にも同じく2cm弱の癌があり、それを剥がすときにも大きなリスクが伴う事を説明された。そして右肩にも同じ大きさの癌があるため、首の皮膚の切開部分が通常の人よりも広域になると言われた。右首にあるリンパ節もあやしい箇所は切除するので、術後の免疫力の低下は避けられない、患部の痛み・痺れ・違和感は一生続く、そして、反回神経への接触による発声障害の可能性、など様々な事を宣告された。
誰がどこの手術をするにあたってもこの手の説明は義務であり、決して自分だけが特別ではない事は分かっていた。しかし、いざ当事者の立場になるといささか気持ちが萎える。もうダメかも知れないと絶望的になる。怖い、不安だ、逃げ出したい、という気持ちだけが頭の中を駆けめぐり、あまりのショックに涙も出なかった。

家族におやすみの挨拶をし、病室のベッドでひとりになったら、途端に涙が溢れてきた。
友人達から送られてくる激励のメールを読みながら、当日の朝を迎えた。

全ての仕度が整い、いざ出陣!
家族に見送られながら笑顔で「頑張ってくるね!」と手を振った。
手術台のベッドは冷たかった。でも看護婦さんや麻酔科の先生達がとても優しくて、手を握ってくれて、心強かった。果たしてちゃんと麻酔が効くのか心配になっていた。私お酒強いし・・・って関係ないかもしれないけど。「大丈夫ですよ、リラックスしてください。」
という看護婦さんの声。  そこから先の記憶はない。


何となく目を開けたら、担当の先生がそこにいた。意識は朦朧でありながら、
声にならない声で「先生、ありがとうございました。」と言った。
ん??声にならないような声でも声が出ていた!ということは、気管切開は免れた!?
と、冷静な判断が出来るようになったのは翌日の話。
当日の夜の思考回路はショート。とにかく高熱にうなされ、痛みで辛かった。
術後はつばを飲み込むことも至難の業だった。顔も首も腫れ上がっていた。
気管に達していた癌は、気管軟骨を削った段階でそれ以上深く入り込んでいないと確認しため切開は回避できた。ギリギリセーフ!という状態だったらしい。先生が私の歌手生命を救ってくれたのだ。この判断には深く深く感謝している。
この悪運の強さが私の歌手としての使命感・原動力となっている。

退院したのは8月頭の事だった。暑い夏のまっただ中。首の傷が膿む心配はあったが、そのほかは順調だった。ケロイドになりやすい体質だったため、傷跡のケアには気をつけた。
声の状態は術後からあまり変わらず、力のないかすれた声。首を絞められているような息苦しさと圧迫感から四六時中逃れられず苦しんでいた。

會田ボイスケアサロンのことを知ったのは、入院前。
甲状腺にまつわる事はネットでくまなく調べていた。そんな時、検索でヒットした中に
會田先生の画期的かつ特化した治療方法があった。とても興味をひかれた。そして一筋の希望の光を見つけた。もしかしたら、ここで私の術後の声の悩みは解決できるのではないかと。
そして、まだとても自分から歌の活動を再開出来るような段階ではなく、自宅療養を続行していた10月、知り合いのミュージシャンから歌録音のオファーをいただいた。
私の病気も手術も、その時の声の状態も知っている人だった。でも、どうしても私に歌って欲しいというお願いであった。とても嬉しかった。こんな状態にもかかわらず、私を選んでくれる。何としても応えたい!!このとき、ずっと気になっていた會田ボイスケアサロンに電話をするチャンスが訪れた。
先生は多忙なスケジュールの中、時間を作ってくださり、私の初診を行ってくれた。
まだサージカルテープを傷跡に貼っているような状態だったので、牽引は無理、咽頭上部を軽くマッサージしてくださった。が、たったそれだけでも、私の声は劇的に変化した。
首を絞められたような圧迫感からの解放。それは喉だけでなく、精神的にも自由を与えてくれた。早速、仕事をオファーしてくれた友人に電話をした。「すごい!前のERIKOさんに戻ってますよ!」とすぐさま反応してくれた。よかった!涙がこぼれた。
自宅に戻り、録音を開始。もちろん術前のようにはいかないが、右首半分をざっくりと切開した人が今こうして音程をコントロールして歌を歌っているという事はすごいこと!
この感動を多くの人に知ってもらいたいと思った。
おかげさまで無事に仕事も全う出来、この事がきっかけで、また歌の活動に復帰するぞと決心した。必ずシンガーとして復活する!今まで以上に良い歌を歌えるようになる!という根拠のない自信が私を支配し始めた。その直感を信じてこられたのも、全て會田先生との出会いから始まっている。それくらい、會田先生の施術力、人間としての器、声や歌に対する情熱は、私を突き動かす凄まじいパワーを持っていらっしゃった。

To be continued・・・






ボイスケアサロン
會田茂樹(あいだしげき)






生きよ、そして、歌え ERIKO Vol.1_e0146240_3215239.jpg






追記:御礼
「ERIKOさん、がんばって、応援しています!」「食い入るように読みました。ご回復を祈っています」「わたしはERIKOに勇気をもらいました。ありがとう・・・」「早く続きを読みたい」との、多くのお言葉を頂戴しました。ありがとうございました。反響の大きさに驚き、この旨をERIKOさんにも伝えました。心より感謝申し上げます。
そう、ふつうに声が出るって、どんなにありがたいことか・・・





~メッセージ~
この記事は投稿時の情報・見解・施術法であり、最新・正確・最良でない可能性があります。内容に関し一切の責務を負いません。その旨ご承知いただきお読みください。會田の理論と技術は毎日進化しています。






by aida-voice | 2010-05-12 11:36